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写真をしばらく封印。

2018.3・11

東日本大震災被災者の方々に哀悼の意を表します。

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3月に入ってから、ほとんどカメラは弄っていない。
ばあちゃんの花が咲いたときに写真におさめるときや、
開花した梅とのツーショットのために野鳥を狙ったくらいだ。
それも長くて1時間で終わるし、毎日ではない。

習慣とはなかなか抜けないものだと思う。
いつ、また誘惑が襲ってくるかもわからない。
それが今の禁煙治療で痛いほどわかる。

逆をいえば、よいことに関する日々の習慣が、日常化されれば
かなりの成長が見込めるのではないかと思っている。


このままカメラもやめようと思っている。
これは完全に、誰のせいでもない私の弱さであったが、
カメラへの物欲は家庭経済を考えれば身の丈に合わず、
誘惑は家庭や仕事さえも影響していた。

優しく諭してくれる人なら
「それに気づいただけでも大きな成長ですね」
とでも言ってくれるだろうか。
現実を見れば、一言、バカとしか自分には言えない。
ただ、前にも書いたが、自責をしても現実は変わらない。
戒めとしての自傷行為のようなものだ。
この痛みを忘れないぞ、という戒めなら、
冷静な今なら、自責も無駄な行為でないように思う。
度が過ぎれば、自責のあまりに自分が壊れる本末転倒なのです。

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カメラをいじらないことでのストレスは感じないのが幸いだった。
むしろ、後悔の念のほうが強く、
カメラ本体を見るだけでもわずかな嫌悪を覚えるほどだ。

ただ、タバコもしかり、のど元過ぎて、気を抜いたときにどうか
である。

そもそも、カメラだけでなく、仕事のストレスを、
衝動買いで埋めようとしていたふしがある。
それこそ大きなものでもない、1円本をネットで注文したり、
カメラの小物アクセサリ関係だったりした。

今は、4月からの新しい職場に向けて、日々すべきことを明確にし目標として
実行している。どれだけしたか、も大切だが、習慣化を目標に、
時々これまでの荒んだ自分を振り返り、成長
(といっても今までが底辺だったからか)を自分で、
ひっそり褒める。

# by kyouji19800920 | 2018-03-11 10:54

今日の、ばあちゃんへ

ばあちゃんへ


気づいたらフキノトウが
出ていたよ。あったかいね。

写真にして仏さんの前に置いておきました。
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# by kyouji19800920 | 2018-03-06 21:04

クリーン作戦にて思う

2018.3.6

一週間ほど前だろうか、
「クリーン作戦」という名目で、大学時代に使っていた一式を処分しようと
実家の物置からいくつかの段ボールを出してきた。
俗にいう、【身の回りが綺麗になれば自分の心も伴って浄化される】というやつ。
プラセボだとしても信じたい。そういう意味も込めての「クリーン」なのです。

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これが容易ではない。
出てくるものの多くは大学時代に使っていた教科書類。
(一番困ったのは、ガラクタのような小物類)
そもそも物を捨てられない父親からしてみたら
本を処分するなど言語道断。
専門書であるから余計だ。しかし、そうしてみると
自分が勉強してきたか、こなかったか、なかなか参考になる。
ノートが使いきれずに半分で終わって残りは白紙であったり、
参考書も使った形跡も記憶もないものも多かった。

要するに、形から入っておきながら、
「買っておけばとりあえずやるだろう」と
根拠のない安堵をしていたわけだ。
これは意外に馬鹿にできない。
なぜなら、記憶が確かなら、
中学校の勉強法とずっと変わってきていないからだ。
勉強だけでなく、読む本読む本、ほとんどがそうであるように
思う。手元に置いておけば読む、と思って買う、が
いつの間にか意識が違う方向へ行き、結局、肥やしになることが多い。

理想をいえば
一冊を十分に読み解く、そこから著者に対しての自分なりの否・肯定をすればいい。
芸人かつ作家の又吉直樹氏は、常に大宰の「人間失格」を持ち歩き、
一冊をぼろぼろになるまで読み解いていた。

少し読んで、少しは面白いと思う、しかし、持続しないのだ。
これでは「国語が苦手です」と相談してくる親に対して
私の言葉は何の説得力もないし、明確な答えが用意できない。

すらすら読めるとしたら西村京太郎サスペンス本くらいだ。
2時間は座って読めるし、読み切ることができる。
私のような人間のために作られているとしたら実に巧みだ。
そういう要素もあり、愛読者が多いのかもしれない。
活字を追う作業という意味では無駄ではないから、
徐々に応用に持ち込みたいものだ。

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今回のクリーン作戦で収穫があったのは、
いくつかある。
元カノとのプリクラはさておき、
自分が学生時代、教師の夢を追っていたときの
志が如実に表されていた。
それは、私の原点であり、すべての始まりであり、
当時からすれば怖い者知らずの原動力だった。

父親に、私が仕事で落ち込んでいた時、
「初任のときの怖い者知らずだったお前はどこへ行った?」

と言われたことを覚えている。
父親の言葉としてはなかなかだ。(どこから目線だ)

確かに、多くの夢があり、下手なりに、がむしゃらだった。
否応なしに不真面目な生徒を怒鳴った。(ちなみに授業中に化粧)
毎日が傷ついていた。
それでも、うれしいこともあった。今でもその辛酸は、
自分の僅かで貴重な財産だと思っている。
ところが、ある日を境に、やはり来るのです。
燃え尽き症候群と言えば一番早いでしょう。断腸の思いで
退職した。

そこから職は転々とした。
それでも、最初の職場の傷(あえてトラウマとは言わない)
はいつも意識していた。

いつの間にか、それらの傷を思いかえすたびに自分に限界を作っていた。
千変万化する日々に、すべてのアンテナを向けることが
どれだけ自分が傷つき疲れるかを覚えた。
いつの間にかではない。自分がそうしてきたのだろう。
どんな仕事でもそうだが、他人に干渉しない、入り込まないことで、
一定の距離感を保った。といえば、それこそ理想のように聞こえるが
学校教育現場では違う。

要するに、人が怖いのだと思う。

明るくにこやかな顔で平気で毒のある発言をする女子、
確信を突くような生意気な発言、それに便乗して盛り上がる周囲、
私を私と認識せずに無視を続ける子、悪びれた様子も見せずに
スマホや違う作業をする子、取り上げれば逆切れか、彼らなりの正論。
一時間すっと寝っぱなしだった子が終わりのチャイムと同時に起きだし
「あ~よく寝た」と、聞こえるように言う男子。

私はそれを穏便に済まそうとしていた。
当然見て見ぬふりはしない。一線を越えれば別だが、越えない限り、指導もしなかった。
多少の問題言動も時とともに浄化しようとしていた。

それでもいいと思う。けれど、いつまでもその彼らの
言動がネックになっていたり
怒りを忘れることができなかったとしたら、それは
私がすべきだったことをしなかった、「自責」なのだと思う。
怒りさえも、気力がなくなってきていると思う。
そういう意味でも穏便なのだ。
それがプライベートにも現れているのはまた別の話ですが。
今度の職場への、覚悟として刻んでおきたい。
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最後に、クリーン作戦で発掘された本を紹介したいと思う。

加藤諦三の著書

【自己創造の原則】
~あなたは何を恐れ、何から逃げようとしているのか~


タイトルからして難しく聞こえる。
大学時代から彼の本は何冊か読んできた。
(※以下、個人の感想です)
それでも読んでいくうちに彼の本は(すべてではないが)
タイトルと内容が伴っていない違和感を感じ始めた。
内容を一言でいえば「指摘」といえば簡単だろう、
「〇〇をする人は〇〇な人です」というような言葉が
定番化されてきていると感じて、いつの間にか読むことを避けてきた。
一種の私のブームだったのだろう。

それでも、この本の一部には、明確に、「次のようなことを認識してください」
と書かれている項目があり、これこそまさに聞きたかった本質だと思って、
上記のこれまでの認識は、また覆された。

彼の本からの引用ではあるが、気づいた言葉を手帳に書き込む習慣をつけようと
思った。

今回は、ふたつほど。

【重要なのは、希望という前提に立って行動し続けることです】

【希望があなたを捨てるのではない。あながた希望を捨てるのです】

これは備忘録としてとっておきたい。


# by kyouji19800920 | 2018-03-06 20:59

変革

2018.2.23


過眠気味で、正直辛い。
好きなだけ寝てるくせに辛いっていうのも矛盾しているようだ。
調べていくとたいてい「うつ」というキーワードは出てくる。

自分がうつ病とかは、置いておくとして、
気になるのが、それに付随して「自分を責める必要はありません」ですとか、
「そんな自分を認めてあげましょう」というような言葉が結構な割合で
出てくる。

正直、自責の念は毎日続いている。
どうすれば自分の犯した自殺未遂の罪が解消されるのか。
家庭に戻るために、自分をどれだけ追い込めば?
変わるためには?

「●●サン(俺)の場合、一回、自分をぶっ壊さないとやべぇべ?」
と、当時から私を知ってる元同僚は言う。

「変わらなきゃいけない」
という思いがある。焦りも不安ももう溢れこぼれている。

そして、上記にある、「責める必要はない」とか「そんな自分を受け入れる」
というようなものは、自分を変えるための言葉ではない気がしていた。
要するに今までもそういう言葉にたよっていたふしがあり、
結果今があるとしたら、私にとってそのふたつの言葉は
薬にはならないかもしれない、と思っている。

ただ、「責めたら変われる」、という命題は真ではない。
自己嫌悪、自責で何がしたいのか、生まれるのか
つまるところそこから抜け出したい。変わりたい。
責めれば何かが変わるんじゃないか、
意外にそう思い込むふしがある。

たしかに自分を責めるということは、責めるだけのことをしてきた。
その事実は受け入れ、その後に自分に何ができるかという一点であって、
交際が発覚して頭を坊主にしたアイドルのように
何か誠意を見せるべきなのか、それも手段であるけれど、
誠意はもとより、「覚悟」というほうが厳密ではないか。
そして、言霊ではあるが、「自責」という言葉は
重い。聞いているだけで
自分を傷つけているような思いにかられる。
だったら「反省」でもいいのではないか。

①反省
→②(誠意+覚悟+行動+・・・)
→③継続(日常化)
→④信じられる自分=自信

が生まれるのではないか。
いま自分はどの段階で留まっているか。
もしくは今までどこで留まっていたか。
当然一番つらいのは①と②を行き来することだ。

やるべきことはわかっていて、ふと気を抜くと
気づいたらまた反省よりも自責や嫌悪や不安に襲われている。
受験勉強のように、結果が数値で見えてくれれば
自分の立ち位置はつかめるが、
完全に自己評価である以上、難しい。
そこで初めて本当の「自己評価能力」が問われる。

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【自責】の言葉を調べていたら、2通りあったことを知った。


当然私の頭の中には①しかなかった。
②はニュアンスの違いもあるかもしれないが、深いと思った。

そう思えば、「自分を認める」という言葉の意味にも2通りがあるのだ。
私が私を認めるとは②なのだろう。


# by kyouji19800920 | 2018-02-25 11:44

「花の名」を借りて

2018.2.20

去年の今頃は祖母の告別式だっただろうか。
非常に強い風が吹いていた記憶がある。

2歳に満たない愛娘を親戚一同の前で連れて歩くのも容易ではなく、
祖母の死去に物思いにふける余裕もなかっただろう。

今、私のPCでは、祖母と娘が、
偶然にも目が合って互いに笑顔で向かい合っている写真がディスクトップ
を飾っている。

私はBuddhistであり、特別に宗教に信仰心はない。
しかし、祖母が大切に育てた(私は名前も知らない)花を見るたび、
祖母の、息吹のような、転生にも似たような思いにかられる。

春だ。
福寿草や梅も咲きだし、
祖母の植えていたそれらも徐々に顔を出すようになった。
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歌の歌詞の解釈がそれぞれに自由なら、
私は”Bump of chicken”の「花の名」を借りたい。



「あなたが花なら たくさんのそれらと変わりないのかもしれない」
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「花の名」を借りて_d0181552_15093176.jpg
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「ぼくがここに在ることは あなたの在った証拠で」
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Bronica S2 自宅玄関前(撮影・嫁)

「みんな会いたい人がいる
 みんな待っている人がいる」
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私が実家に帰ると、必ず「帰ってきたの~?」と出迎えてくれた。
どんな時も笑顔だった。
最近まで、今にも、壁の向こうからひょっこり顔を出して
そんなことを言ってくれるような空気が漂っていた。

いつまで続くかわからないけれど、
仏壇に、その日撮った花の写真をあげることにしている。
私が写真を始めたばかりのときの、たいした写真でもない花の写真を
祖母は喜んでくれていた。
そのときの笑顔でいてくれたらいいなと、そんな思いで。

# by kyouji19800920 | 2018-02-20 15:34