2018.2.8
妻と娘のところから別居して5か月になる。 その間、笑えた記憶がない。 TVに出る人は、みな愛し合っていた。 愛し合えるってどんなものかを忘れている。 家族ひとつになって愛し合う人たちが まるで宇宙人かなにかの別の生き物のように写る。 自分に似た不幸な人を探しているのだろうか。 たぶんそうだ。 それでも、何時間テレビをつけても、DVDを見ても、 自分には縁のない宇宙人がいた。 彼らを見て希望を持つ、それを生きる糧にしようと 思ってみたけれど、やはり宇宙人は宇宙人だった。 宇宙人が当たり前のように世界に広がっているのだから 彼らから見たら、私が宇宙人なのだろう。 孤独に思えてきた。 なぜ当たり前ができないのか、皆当たり前に笑えているのか。愛し合っているのか。 そう思うほど自分が惨めに思えてくる。 昔の自分ならそう、一人孤独と悲しみに暮れていただろう。 けれど今は少しだけ違う。少しだけ。 寧ろ、当たり前とか、普通の生活というものが 「理想」と呼ぶべきものなのであって、 それらを保つために皆、懸命に切磋琢磨しているのだ。 テレビほど現実は美しくない、それは むしろ私だけが感じることではないではないか。 _____ 祖母の一回忌を終えたころ、ちょうど福寿草が咲いた。 祖母と一緒に、今年も咲いたと微笑んでいた。 福寿草・・・「福」って言葉に弱い。 ______ 福寿草だけではない。 祖母が亡くなって、いろいろと哀愁にふける。改めて 我が家の歴史を感じるようになってきた。 玄関の目の前には、梅の古木がある。 96で亡くなった祖母がこの実家に嫁いだ時からあったというから 少なくとも80年は立っているだろうか。 私の記憶では30年前までは亡き祖父母が二人で、成った梅を棒で 落として拾い集めていた。 黙っていれば朽ち果てるのは簡単だろう。 いまでは縄で縛ったり、支え木がないと倒木寸前の古木だ。 それでも咲かそうと、蕾は今年も膨らんでいる。 「ただ生きてる」というより、生かされているし、 生きようとしているのだろうと思った。 黙って立っていればただ朽ちる。 自分自身がそこに根を下ろし、 誰かの支えがあっても生きようとする。 人間であっても同じではないか。 不幸を背負って、ただ黙って立って幸福を待ち生きるだけでは、朽ちる。 それはもう、生きているようで死んでいる。 本来は、生かされながら生きようとすること、そうして 初めて花を咲かせることができる。
by kyouji19800920
| 2018-02-08 15:51
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